保元元年の保元の乱から始まった源平合戦は、平家が滅亡する壇ノ浦の戦いまで様々な戦いによって貴族社会から武士社会へと変貌していきました。
その歴史の流れを追いながら、どのような出来事があったのかを確認していきましょう。
1159年(保元元年)崇徳上皇派と後白河天皇派が後継争いによって対立し、藤原摂関家・源氏・平氏がそれぞれを擁護し、後白河派が勝利します。その後、人事に不満を持った藤原信頼、源義朝らはクーデターを起こしますが、平清盛によって阻止されます。この二つの乱によって、清盛は武家政権樹立の礎を築きます。
・鹿ヶ谷の陰謀1177年藤原成親、僧俊寛らが鹿ヶ谷の山荘で急速に対当してきた平氏の討伐を計画しましたが、多田行綱の密告によって発覚し、失敗に終わってしまいました。それにより関係者は流罪や死刑など厳しく処罰されました。
・以仁王による平氏討伐令旨1180年4月、後白河法皇の第3皇子以仁王は平氏討伐の令旨を発します。それに対して平氏の棟梁・平清盛は追討軍を遣わしますが、以仁王は園城寺に逃れ、源頼政が軍勢を率いて以仁王のもとに合流し、反平氏の軍勢が集まりました。しかし、以仁王と源頼政は宇治平等院の近くで平氏の軍勢と衝突し、二人は討ち死にします(この戦いは後に橋合戦と呼ばれています)彼らの挙兵は失敗に終わりましたが、平氏追討の発火点となりました。
・源頼朝の挙兵1180年8月、平氏によって流されていた源頼朝は、伊豆国の目代山木判官兼隆を討ち取ったのを皮切りに挙兵します。だが、挙兵は順調にいかず、石橋山の戦いで負けた頼朝は海路で安房国に逃れ、豪族らの援助を受けながら鎌倉入りし、そこを本拠地としました。
・富士川の合戦1180年10月、平氏政権となっていた朝廷は、源頼朝追討を命じました。平維盛を総大将とした平氏軍は、志気が低く、脱走する者が現れます。その為、源氏と平氏の両軍が富士川を挟んで対峙した際には、源氏が数の上で圧倒していました。決戦前夜、不安に駆られていた平氏は、水鳥の羽ばたく音に源氏の夜襲かと驚き、散り散りに逃げていきました。
・平清盛の死源氏は徐々に勢力を拡大し、延暦寺や東大寺の僧兵も平氏追討に立ち上がります。それに対して、平清盛は幽閉されていた後白河法皇に政務を願い、その直後に平重衡を大将とした平氏軍が東大寺と興福寺を攻撃し、焼き払いました。権力を回復させようとした清盛でしたが、1181年2月熱病に冒され、命を落としました。
・平家の都落ち北陸方面の源氏方である源義仲軍は、倶利伽藍峠で平氏の大軍を撃破した勢いに乗って京に進軍。更には同盟軍の源行家も京に迫っていました。対する平氏はこのまま京に留まることに危機感を覚え、安徳天皇・後白河法皇を奉じて京を去ろうとしましたが、後白河法皇は比叡山に身を隠しました。平氏は法皇を同行させることを諦め、京を去りました。これを平家の都落ちとよんでいます。
・一ノ谷の合戦
都落ちした平氏は源義仲・源行家の軍を破った後、一度九州まで落ち延びましたが、再び東上して摂津福原に戻り、西は一ノ谷に、東は生田の森に城郭を構えて源氏に備えました。後白河法皇は源範頼・源義経に追討を命令し、神戸の旧市街地全域で合戦となりました。こえrを一の谷の戦いと呼んでいます。
・屋島の合戦
一ノ谷の合戦に敗れた平氏は讃岐の屋島に陣を取りました。水軍を持たない源氏は攻めあぐねていましたが、源義経は僅か百五十騎を率いて海を渡り、土地の武士達を味方につけて、屋島を攻撃しました。攻撃された平氏は長門国に逃れていきました。
・壇ノ浦の合戦
源平最後の合戦、壇ノ浦の合戦は海戦でした。朝の6時頃から始まった合戦は、長い時間の末源氏が勝利しました。負けを悟った平氏一門は次々入水し、自決していきました。平宗盛や平時忠など助けられ捕えられた者もいましたが、この戦いで平家は滅亡しました。
こうして源氏と平氏の戦いは平氏の滅亡で幕を下ろしました。その後、頼朝は弟である義経を討ち、奥州を平定していきます。このように源平の歴史は終わりを告げ、源頼朝による鎌倉時代が始まっていくのです。
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