新羅の国の王子、天之日矛(あめのひぼこ)はある時、牛を連れていた男から赤い玉を手に入れます。その赤い玉は沼のほとりで昼寝していた女が産み落とした物で、持ち帰ってみると赤い玉は美しい乙女へと変化しました。天之日矛は彼女を妻としますが、ある日妻を罵ってしまいます。悲しんだ妻は祖国である日本に帰ると告げ、去っていきます。天之日矛も妻を追って日本に向かいますが、目的地にたどり着けず、但馬国に到着します。その地の女と結婚し、但馬国に新たな文化を築きました。
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出石神社
出石神社は但馬五社の一つで、地元では「いっきゅうさん」と呼ばれ親しまれています。創建は奈良時代と伝えられ、日本記畧では但馬第一の大社と記されています。天之日矛を祭神としており、境内には天之日矛の陵(墓)か祭祀の場であったのではないかと言われている禁足地とされる聖域があります。出石神社の社殿は過去に二度焼失しており、現在の社殿は大正3年に再建されています。神社が所蔵する「但州住国光」の銘が入った脇差1口が国の重要文化財に指定されています。

所在地及び周辺地図

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住所
〒668-0204
兵庫県豊岡市出石町宮内99
お問合せ 出石神社 0796-52-2440
アクセス JR山陰本線「豊岡駅」から「出石方面行」のバス約25分「鳥居橋」〜徒歩10分


中嶋神社
天之日矛の四代の子孫である多遅麻毛理(たぢまもり)を祀る神社。 第十一代垂仁(すいにん)天皇は、配下の多遅麻毛理(たぢまもり)に命じ、不老不死の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせました。多遅麻毛理は、ついに常世(とこよ)国に至り、非時香菓を持ち帰ったのですが、時すでに遅く、垂仁帝は崩じられていました。その御陵(みささぎ)に多遅麻毛理は非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を献じ叫び哭いて亡くなられました。非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)は、いまの「橘」とされています。 これを、菓子のはじまりとし、多遅麻毛理を菓祖神と崇められるようになりました。
多遅麻毛理(たぢまもり)は後の神功皇后(じんぐうこうごう)=第十五代応神天皇(おうじんてんのう)の母の母である葛城之高額比賣(かつらぎのたかぬかひめ)の伯父にあたります。

所在地及び周辺地図

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住所
〒668-0823
兵庫県豊岡市三宅1
お問合せ 中嶋神社 0796-27-0013
アクセス JR豊岡駅から全但バス「奥野行き」に乗り、中嶋神社前下車

久々比(くくひ)神社
日本で唯一コウノトリにゆかりのある神社。 古来、コウノトリの飛来地であったこの地を、その古称である鵠(くぐい)に因んで久々比と呼び神社の名としたのが始まりとされます。鵠は古来から瑞鳥とされてきました。
『古事記』では、十一代垂仁天皇の皇子本牟智和気王(ほむちわけのみこ)の逸話の中で、鵠が登場します。
炎の中で生まれ、直後に母を失った本牟智和気王は成長しても言葉を発することができず、父である垂仁天皇は、そのことを深く憂いていました。
ある日、天皇が二股に分かれた杉をくりぬいて作った小船を池に浮かべ皇子を連れて遊んでいたところ、空高く飛ぶ鵠の声を聞き、本牟智和気王は始めて言葉を発しようとしました。
それを見た天皇は、鵠を捕えるように命じます。『古事記』では鵠は各地を飛び回る中で但馬に飛来し、越国で捕まったとしますが、『日本書紀』では出雲あるいは但馬で捕えたと記されています。
神社の祭神は、現在は木の神である久々能智命(くくのちのみこと)とされていますが、鵠を捕えた天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)を祀っていたともされています。本殿は室町時代中期、永正4年(1507)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。

所在地及び周辺地図

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住所
〒668-0813
兵庫県豊岡市下宮318-2
お問合せ 豊岡観光協会 0796-22-8111
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