古代の播磨はどんなふう?

四コマ漫画で古代の播磨を知ろう!

古代の播磨人はどんな暮らしをしていたの?どんなものを食べていたの?

風土っ記んな人々 遠矢美緒 vol.1「呑めば都」 「米盗りあうも他生の縁」1コマ 「米盗りあうも他生の縁」2コマ 「米盗りあうも他生の縁」3コマ 「米盗りあうも他生の縁」4コマ

米と食文化

1. 食の基本はやっぱりお米っ!

古代から今も変わらないのは、日本人が米好きだっていうことです。米は今も昔も日本人の元気の源だったんですね。
米を“蒸し”て食べていたっていう記録もあるようですが、風土記が書かれた時代、ヤマトを中心とした地域では、米はもう“炊い”て食べていたようです。でも、ホカホカの白いご飯を食べていたのは一部の貴族たちだけで、ほとんどの人は粟とか稗(ひえ)とかの雑穀を混ぜて食べていました。
それから、米は主食としてだけじゃなく、塩、什器、農具の交換のために、お金の役割もしていたようですし、酒の原料としても使用されていました。

2. 宍粟は最古の酒づくりの地のひとつ

そのお酒ですが、今の宍粟市で作られていたっていう最古の記録があります。
「播磨国風土記」には、「大神の御粮(みかれい)沾(ぬ)れてかび生えき すなわち酒を醸さしめて 庭酒(にわき)を献(たてまつ)りて宴 (うたげ)しき」という一説がありまして、その意味は、神様に供えたご飯が濡れてそこにカビが生えてきたので、それでお酒を作って神様に献上して酒宴を行なった、という内容なんですね。
この場所は、風土記にある宍禾郡(しさわのこおり)の庭音村で、現在の一宮町能倉の庭田神社(伊和神社の末社で延喜式神名帳に載る古社)と考えられています。

3. お米がついた地名は幸せの場所

播磨国風土記には、山や丘の名前を“神様の食事”と結び付けていることが少なくありません。その中でも米に関するものが圧倒的です。お米が、当時の播磨人の主食だったことはもちろんですが、同時に播磨での主要な生産品であったことがわかります。
播磨国風土記は、お上への報告書ですから、きっちり土地の報告もされています。作高の良し悪しを上中下の3段階、それをさらに上中下の3段階に分け、都合9段階で報告しているんですが、「上の上」は一つもなく、平均すると「中の中」となるようです。「上の上」がないのはお米の税を軽くするためにわざと書かなかったっていう考えもあるようで、さすが関西人らしい強かさを感じますよね。また山間部の佐用郡に比較的上級のランクがあるのは産出量ではなく品質によるランク付けじゃないかとも言われています。

4. 食事の風景

この頃の人の食事は1日2食が普通で、きつい労働をする人や夜遅くまで仕事をする人は間食をとっていました。1日3食の習慣は、こうした社会の下のほうから次第に広まったんじゃないでしょうか。
さて、食事の風景はどうだったんでしょう。
下級官僚クラスの食事は、白米のご飯と汁、おかず一皿か二皿と漬物程度、役所の下働きで玄米と一汁一菜がやっと、調味料は塩だけだったみたいです。農民の食事も役所の下働きとそう変わらない質素なもので、主食も雑穀交じりだったようですが、海や山、住んでいる場所ごとに、その時々の旨いもんが精一杯食膳をにぎわせていたんじゃないでしょうかね。

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